文末表現に関するちょっとしたメモ。

論文は、あくまで確証化された論理の連なりを前提に話すので、「〜である」を文末に使用する事になる。「〜である」は、云ってしまえば断定的な立場に立つ者のみが使用することができる『マジックワード』である。「〜であるかもしれない」では、もちろん駄…

ペニー・レインはどういう所なのか、という事に関する話。

「歌われた土地」、というものがこの世の中には無数にある。ある特定の場所が、題材として歌の詞の中に登場することである。Jポップではすっかり使われなくなった方法論だけど、昔で云えば「春のうららの隅田川〜」なんてそうだし、そこから時代は下っても例…

人生は、「人には言えない事」を分かち合うためにある、って話。

お気楽で能天気な僕にも、後悔、悲しみの類いが、それなりにあるんです。 そういうのは大抵、人間関係に起因しているんです。宝くじが当たらなかったとか、美味しい物が食べられなかったとか、そういう様な、事象で完結してる様な事はすぐ忘れてしまいますが…

人生がときめく「書斎」の魔法ー ①「聖域」としての書斎

中島敦の小説に「文字禍」という有名な短編があります。 物語を圧縮すると、古代アッシリアの博士が、文字の中には精霊がいるのでは無いか、という些かオカルティックな研究を始め、徐々にその文字に込められた霊的呪術力(記号論的な感じ)を発見し、その危…

普遍性としての「ベタさ」ー 私的エレファントカシマシ論②

前エントリーでは、エレファントカシマシの世界観を形成するヴォーカルの宮本浩次の歌詞世界を、その内省性や「悲しみを抱えてうろうろ歩き回る文系青年の身体」という、やや自らの偏ったパースペクティブの元に分析しましたが(それゆえに「私的」なのです…

孤独な文系青年は今日も歩くー 私的エレファントカシマシ論 ①(かも)

誰しも、自らの感性にピタっとあて嵌るアーティストや作家がいると思います。 この人(達)はもしかしたら、自分と同じ道を歩いてきたのではないか、同じものを食べてきたのではないか、同じ事を考えてきたのではないか。 今の自分が考えている事や、感じて…

はじめに「問い」ありき。 鹿島茂「勝つための論文の書き方」は最高にお奨めの本です。

世の中には多くの「論文作成本」があります。清水幾太郎さんの「論文の書き方」という本がありますが、これが1959年出版。60年も前からこのようなジャンルはあったのですね。恐らく、戦前から遡り、大正、明治期も「文章作成法」の本は少なからずあったでし…

本は借りるのではなく買おう、さもなくば街に出よう。

僕は大抵、目に付けた本は、買うことにしています。 今年に入ってからも、恐らく50冊以上はAmazonを経由して本を購入しているでしょう(そのほとんどが中古本なので総額自体は大したものではないですが)。本に対する情報を得たら、その内容を点検して、買う…

手のうちを完全に明かしたとき、初めてその人は何か書き得るのかもしれない。

数日前、とあるブログのエントリーが、SNS界隈(といっても小さな領域なのでほとんどの方はご存知ないかもしれません)で中々の反響をもって受け入れられました。 ブログで家族を養えるのか「ブログを挫折しそうな12の理由 というか、もう無理かも」 http://…

迷ったら、とにかく書けばいいんじゃない?

ブログを始めてから、まだ、たった3つ程度しかエントリーを書けていないのであれですが、今回は、ブログにおいて、さらに言えば人間活動全体において、とても根源的な「文章を書く」という行為について、考えてみます。 「文章を書く」というのは、とても曖…

“斎く”場所ならどこにでもある。 【書評】海野弘「書斎の文化史」

「勉強する」または「モノを書く」という事が、「スタディ・ルーム(書斎)」で主に行うものだ、と大まかに決められたのはいつの時代なのでしょうか。 全ての人が、スタディ・ルーム、書斎を主に知的活動の拠点にしているわけではありません。例えばフィール…

「パズー」という実践的ロールモデル ー空高く地深く往還する精神

先のエントリーで、「アカデミズム・フェティシズム」と言うべきような、文系的な研究環境に対する偏愛のようなものを、渡部昇一の本を挙げて書き綴りましたが、この本に出会うずっと以前に、そのフェティシズムの萠芽ともいうべきようなものが、ある「人物…

静かな部屋と、カルタイ・カステン。 【書評】渡部昇一「知的生活の方法」

英語学者の渡部昇一さんが、30年以上前に書いた「知的生活の方法」 という、僕の大好きな本があります。 多くの方がビジネス本や、知的生産技術系の本を手に取るのと同じ様に、僕もこの本を、自分の研究活動に役立てられないだろうか、という実利を求める動…