静かな部屋と、カルタイ・カステン。 【書評】渡部昇一「知的生活の方法」

 英語学者の渡部昇一さんが、30年以上前に書いた「知的生活の方法」 という、僕の大好きな本があります。

 

 多くの方がビジネス本や、知的生産技術系の本を手に取るのと同じ様に、僕もこの本を、自分の研究活動に役立てられないだろうか、という実利を求める動機で、大学3年の時に購入しました。

 

しかし期待は良い意味で裏切られます。もちろん全編に渡って、いわゆる「知的生産の技術」が、研究方法から食生活に至るまで、あらゆる観点で渡部自身の経験と共に論じられていくのですが、そういったテクニカルな面以上に、僕が何よりこの本に感じ取ったのは、「アカデミズムの香気」とも言うべき、なんとも艶やかな学問、研究世界の素晴らしい雰囲気です。

 

 市井にいながら才気煥発とした「恩師」佐藤順太先生の紹介に始まって、漱石の幼少時代におけるその文学センス形成にまつわる話、「贅沢」より本を選んだギッシングの話、城の中で植物学の研究や詩作に没頭するゲーテの話等、「ものを書く(創る)」事に少しでも携わる人ならば誰しもが心打震えるような、知的営為者の「英雄譚」とも言うべきエピソードが次々と紹介されていきます。

 

 そして僕が何より感興を得たのが、著者自身のドイツ留学時代の話。当時「ヨーロッパ諸国の国語の文法の発生」を研究テーマにしていた著者ですが、担当教授の「シュナイダー先生」に、その扱うテーマの広範さを指摘されます。先生はいくつかアドバイスをしますが、それでも著者の研究はその後も思う様に前進しません。

 ある日、著者は先生の夕食に誘われます。その席で先生は「カルタイ・カステン(カードボックス)を買いなさい」とアドバイスします。本の内容、気付いた事、考えた事、とにかく何でも良いからカードに書いてそのカードボックスに入れていく。

 「そうすれば」研究の核とも言うべき論点が見つかり、論文の出発点を得る事ができるだろう…とシュナイダー先生は教えてくれます。

 

 そのアドバイスに従い、その後著者は見事、書き溜めたカードの中から文法学の大家が書いた書物の欠陥部分を発見し、そこから300ページに及ぶ学位論文を書き上げるのですが、ともかく「カルタイ・カステン」という印象的な響き、そして本の中に添付されてある、木で作られたドイツ製のカルタイ・カステンの工芸的美しさ、そして「小さな静かな部屋とカードボックスがあれば、ひとかどの仕事ができる」と断言する著者の実感を伴った力強い言葉。全てが、「何かモノを書いてみたい!」「研究とはなんぞや?」という大きいテーマに押しつぶされて呻吟していた当時の僕に、あまりにも鮮烈に突き刺さりました。

 

 

 この本が出版されて30年以上経ち、いまや知的生産の技術は相当に発展してきました。それを拡張してくれるアプリやクラウドサービスの登場など、情報産業がますます隆盛する今の時代において、今後も知的生産に関わるメソッドは、手を変え品を変え頻出してくるでしょう。

 「知的生活の方法」は、古き良きアカデミズムの「おとぎばなし」の様な世界を見せてくれます。整然とした書斎、秩序に満ちた古代の図書館、夢と本で溢れた学者の屋根裏部屋、ドイツアカデミズムの品の良さ、工芸作品かと思えるような「カルタイ・カステン」…。僕が味気ない自分の部屋で思案をめぐらせ、メモを書き、文章を打ち込む時にいつも思うのは、このなんとも厳粛で、それでいて心地いい、香気溢れる世界です。