「パズー」という実践的ロールモデル ー空高く地深く往還する精神

 先のエントリーで、「アカデミズム・フェティシズム」と言うべきような、文系的な研究環境に対する偏愛のようなものを、渡部昇一の本を挙げて書き綴りましたが、この本に出会うずっと以前に、そのフェティシズムの萠芽ともいうべきようなものが、ある「人物」を知り、芽生えました。

  

 「彼」は、底深い渓谷沿いに一人、居を建て、炭坑で働きつつ、働くと同時に、どうやら何か研究をしているらしいー 家の中の生活環境の中に、研究成果やその知的営為の後が散見できるー その研究は、彼の「父親」から受け継がれたとも言うべき「夢」のようなもので、その実現に向けて探求と実践を繰り返している。

 「彼」は独自でその研究を進めつつ、それでも独立した研究者がなりがちな頑迷や孤独に堕する事は無く、同じ労働を共にする仲間や、その家族と仲睦まじくしながら日々労働を全うしている。そんなある日、偶然の風に吹かれたように少女を助ける事になるー

 

 もうお分かりでしょうが、これはアニメ映画「天空の城ラピュタ」のパズー少年です。

 メリハリの効いたストーリー、見ているだけで楽しいアクションなど、今ではすっかり日本を代表するアニメーション映画として定着していますが、僕はこのパズーに、言うなれば「知的実践者としてのロールモデル」をずっと見出していました。すなわち、「ものを書く事や、何かを作るという意味で、パズー程その理想的な実践を示してくれる人物はいない」という事です。

 

 先程述べた「アカデミズム・フェティシズム」の観点から言わせると、静かで穏やかな渓谷の側に自らの研究、製作環境があってそれに打ち込めるなんて、なんと羨ましい事か、と思わざるをえません。映画を見ていらっしゃる方ならご存知かと思いますが、あの冒頭の、屋根でラッパを吹くシーンはなんとも素晴らしい。パズーと、その彼の生活環境の「開放性」を感じさせてくれます。この環境で、パズーは存分に知的に羽を伸ばす事ができたのではないでしょうか。

  環境の話だけではありません。ある日偶然パズーは、飛行船からはるか空高く落ちてきたシータを助けます。そこから物語はなだらかに加速していくのですが、僕は「研究の実現に向かうためのトリガー」のようなものが、このように全くの偶然によってもたらされた、という事にとても感興を覚えます。もし彼が落ちてきた少女に気にも留めなかったら(あれだけあからさまに落ちてきてて、そんな事はありえないかもしれないけど)、彼の日常は空に飛翔することはなく、そのまま炭坑に縛り付けられていたかもしれません。

 モノを作るという意味でも「発見」や「気づき」は、必ずしも論理的思考や万全とした計画性から導きだされるという訳ではなく、全くの偶然から見いだされる事も少なくありません。僕達もパズーの様に、どんなに自らの領域と関係が無いように思えても、ある日突然来る「空から降ってくる少女」を無視してはならないのです。

 

 そして僕が一番、パズーに見いだすのはその「知的旺盛さ」または「知的逞しさ」です。パズーはとにかく顔が利きます。鉱山の仲間からはとても慕われていますし、基本的にどんな人間とも親しくできます。

 彼を彼たらしめているものは、その「誰であろうとも親しくでき、話がきける」という性格です。これは僕は「知的正直さ」とも呼びたいと思います。どんな環境の、どんな人間でも分け隔てなく接し何かを学びとろうとする。

 その相手の最たる例が、物語の途中で登場してくる「ポムじいさん」と、後に目的を同じくする空中海賊の「ドーラ一家」。これは構造的に把握してみると分かると思いますが、物語の舞台において最も下層な廃坑にいるポムじいさん、そして最も上層にいる事になるドーラ一家。「ラピュタ」というパズーの幸福な物語は構造上この両極端にいる二者の存在が必要不可欠でした。「ポムじいさん」という最も下層な位置にいながらも、物語のキーとなる根源的事実を呈示してくれるアドバイサーに促され、「ドーラ一家」という上層にいて荒々しくも気っ風の良い人々に助けを借りて、とうとうラピュタ到達という成果に結実する事に成る。それは、収縮から拡散へ、観念から具体へ、何か人間の思考プロセスを象徴的に見るようです。

 その事を可能にしたのは、全てパズーの「知的に開かれた姿勢」にあるでしょう。もしポムじいさんを、廃坑を彷徨う浮浪者として軽重にあしらったり、荒々しいドーラ一家達に最後まで反発するような事があったら、ラピュタの物語は決して動き出す事はなかったでしょう。僕達は何かを作りたいなら、必ずこのパズーのような、「上下にダイナミックに往還する精神」を失ってはいけません。

 

 モノを作る事や何か研究する事に行き詰まっているのなら、「ラピュタ」を観てみましょう。そこには、少年パズーの何よりも素晴らしい精神の闊達さ、ロールモデルがあります。そして、自分の「シータ」とは何か、「ポムじいさん」とは誰か、「ドーラ一家」とは誰か、もう一度振り返ってみましょう。どんな人にも、それぞれの「ラピュタ」はあるのですから。