普遍性としての「ベタさ」ー 私的エレファントカシマシ論②
前エントリーでは、エレファントカシマシの世界観を形成するヴォーカルの宮本浩次の歌詞世界を、その内省性や「悲しみを抱えてうろうろ歩き回る文系青年の身体」という、やや自らの偏ったパースペクティブの元に分析しましたが(それゆえに「私的」なのですが)、今回はあくまでフラットに、その歌詞に通底する基準軸のようなものを、大きな視点からとらえて、考えてみる事にします。
宮本は読書家で、文学的な教養も十二分にある事を、前エントリーで紹介しました。実際彼の詞をいつ読んでも(聴いても)、時折挿入されるその文学的な表現に感嘆してしまう事は少なくありません。
しかし、そのように、言葉に対する十分な拘りがありながら、一方で楽曲のタイトルは、その中の文学的な歌詞に比べて、ハッとしてしまう程「簡素」な場合が多いのです。いくつかご紹介しましょう。
「四月の風」
「孤独な旅人」
「悲しみの果て」
「明日に向かって走れ」
「真夜中のヒーロー」
「普通の日々」
「笑顔の未来へ」
「さらば青春」
「ふたりの冬」
「風に吹かれて」
「俺たちの明日」
このように、どちらかと言うと、言葉の世界では「消費し尽くされてきた」と言ってもいいような、もっと言うと「ベタ」さすら感じさせてしまうタイトル名が、非常に多いのです。「さらば青春」「俺たちの明日」というのはいかにも昭和の青春ドラマでありそうですね。「風に吹かれて」なんて、それなんて五木寛之orボブ・ディラン?って言われちゃいそうです。(もちろん変わったタイトルの楽曲も相応にありますが。)
荷風を読み、鴎外を読み、太宰を読み、古典文学すら手にとる様な宮本が、何故タイトルの上では、あくまでその様な「ベタ」な表現を取るのか。もちろんそれはあくまで表現者の自由と言っていいでしょうが、僕はあえてここに仮説を呈示します。それは宮本自身の「普遍性への希求」です。
十数年前に、エレファントカシマシとして出演した番組の中で、宮本は自身が影響を受けた曲として、森田公一とトップギャランの「青春時代」と、沢田研二の「サムライ」を挙げています。どちらも日本歌謡史に残る大名曲なのですが、あえて言うと、ど真ん中すぎるくらいど真ん中の歌謡曲なんですね。しかし、ここにも宮本の、あえての「ベタさ」。良く言えば「普遍性」への憧れが垣間見れます。
恐らく彼は過度な読書家ゆえに、長く後世に残る文学というのは決して突飛なものでなく、いつの時代の人間にでも通じる「普遍性」が備わっている、という事を、その文学的素養で嗅ぎ取っているのではないでしょうか。反対に、ある時代の人間、あるグループに所属する人間にしか通じない様な「特殊性」のある表現に対する忌避の様なものもあるのだと思います。
僕らそうさこうして いつしか大人になっていくのさ
いざゆこう さらば遠い遠い青春の日々よ
(「さらば青春」)
宮本には恐らく、日本歌謡や日本文学の長い長い伝統の延長線上に乗ろうという意図があるのだと思います。文学が常に主題としていた孤独、恋愛、友情、退屈、希望、労働、懊悩、政治革命!(すら書いているんです彼は)等の人間的テーマをあくまで「ベタ」に、「普遍的」に、詞であまさず表現しようとする。これが、エレファントカシマシが何故現代のミュージシャンの中で際立って「文学的」なのか、という問いに対する一つの解になりえると思います。そして、日本歌謡の「正統的な後継者」として、「日本的なるもの」を歌い上げる事ができる、現代において数少ないアーティストであるとも言えるでしょう。
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