ペニー・レインはどういう所なのか、という事に関する話。

 「歌われた土地」、というものがこの世の中には無数にある。ある特定の場所が、題材として歌の詞の中に登場することである。Jポップではすっかり使われなくなった方法論だけど、昔で云えば「春のうららの隅田川〜」なんてそうだし、そこから時代は下っても例えば「津軽海峡冬景色」なんてドストレートなものもあったりして、珍しいものではな無い。そもそも古くは万葉集から、近世で云うと奥の細道まで、歌という枠組みを取り払えば、いくらでも特定の土地を題材とした作例は見つかるはずである。(最近だと、いきものがかりが「小田急線の〜」っていう様な歌を歌っていた気がする。)

 内田樹はこの特定の土地を題材として歌を唄う事を、中国の古代歌謡やサザンやユーミンの歌詞を例に、「国誉め」と呼ぶ。「山が高いとか、森が深いとか、水が流れているとか、景色を事細かに記述する」ことでその土地は、呪術的に「祝福」される。何も難しいことは無い、具体的に歌われる事で、土地は記号的な立場を越え「生々しい具体性を帯び」、「モノとしての物質性が付与され」、かげがえの無いものとなり、そしてナショナルトラストに昇華される。それが「国誉め」の原理である。

 この話を聞いて僕が真っ先に思い浮かんだのが、エレファントカシマシと、ビートルズである。両者には特に関係性は無い。すぐに思い当たる例として挙げるだけである。

 エレファントカシマシの歌詞には、詳しい人は分かるだろうけど、「上野」、「井の頭公園」、「武蔵野」、等々ありとあらゆる東京の土地が、地方出身の僕からしたら、「面食らう」程に歌われている。作詞を担当する宮本浩次は土地を歌い上げる事で、自ら育った東京を「祝福」しているのである。

 エレファントカシマシの話は別の機会に譲るとして、もう一つ挙げたビートルズも「国誉め」の歌をいくつか作っている。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、または「ペニー・レイン」である。彼らも自ら育った英国のリヴァプールに存在する土地を題材にして歌を唄った。彼らが育った土地の名前である。(土地の名前をそのままタイトルにする、というのが実に良い)

 僕は後者の「ペニー・レイン」がとても好きだった。中期ビートルズがよく発想の種にした、ドラック幻覚を興じさせる様な妙にファンタジックな歌詞がとても好きだったのだ。

 

 Behind the shelter in the middle of the roundabout 
 The pretty nurse is selling poppies from a tray 
 And though she feels as if she's in a play 
 She is anyway 
 凌ぎ場の ロータリの真中にある店の裏で 
 かわいい看護婦さんがポピーの造花を売っている
 気持ちは舞台に立っているつもりだけど
 売っていることに変わりない

 

 実はこの曲自体が壮絶な隠語の宝庫という噂もあるのだけど、間違いなくこの歌にはレノン=マッカートニーのきらびやかな記憶が埋められているはずであり、彼らが幼少期に過ごした土地に対する「祝福」があるはずである。

 ところで、このペニー・レインという所は、旅行サイトの画像なり、グーグルアースを見るなりすると分かる様に、全くなんの変哲も無い通りなのである。確かに曲で歌われた床屋や銀行はある。花屋のお姉さんが売り場にしていたというロータリーっぽいものもある。しかし、後は民家がポツリポツリとあるだけで、僕が曲を何百回も聞いて想像を逞しくして思い描いていた煌びやかなイメージ(強いて云えば映画の「ペネロペ」みたいな感じ)には、到底及ばない地味さである。しかし、その事が「祝福」を余計に際立たせるのである。

 

 何の変哲もない秋風漂う様な土地を、ジョンとポールがただ幼少期を過ごしたという動機だけで、当時見聞したであろう記憶を頼りに歌を作り、それが世界の何億人の耳に伝わって、挙げ句の果てには「ペニー・レイン通り」を示す看板を度々盗まれるに至っているという、そのスケールが伸縮するようないきさつに、「祝福」する事の素晴らしさを感じざるを得ない。

   

  Penny Lane is in my ears and in my eyes 
  There beneath the blue suburban skies 
  Penny Lane
  ペニー・レイン 僕の耳に 目の中に
  見上げると青い郊外の空
  ペニー・レイン