手のうちを完全に明かしたとき、初めてその人は何か書き得るのかもしれない。

 数日前、とあるブログのエントリーが、SNS界隈(といっても小さな領域なのでほとんどの方はご存知ないかもしれません)で中々の反響をもって受け入れられました。

 

  ブログで家族を養えるのか「ブログを挫折しそうな12の理由 というか、もう無理かも」

 http://blog.livedoor.jp/knonnonba8/archives/29760463.html

 

 ブログを始めて数日経ち、早くも飽きがきてしまった事。その理由があまりにも赤裸裸に書かれている事。

 ブログの影響力が実生活に及びそうにない現状、金策のために始めたブログの先が見えてしまった事。

 

 このような哀愁ただよう現状でありながら、妙にたんたんと、突き放した様なコミカルな文体で書かれているので、まるで噺家が語っている様な、何とも言えない味のある文章になっています。この文章の、一種軽薄で、しかし人間味溢れる独特な雰囲気に、多くの人が惹かれたのでしょうか、それ以前の筆者のエントリーに比べ、コメントをたくさんもらい、リツイートも30以上、そしてその後の著者自身の報告によればPVを2万以上獲得したようです。

 

 筆者はそれ以前は、ブログのアクセスアップを図るための戦略を、あらゆる方法で実践した、その経験談のようなエントリーを主に挙げていたのですが、それは多くの人が求める様な「利」になる情報に関わらず、その記事に対するアクセスは、1ケタ、2ケタと全く振るわなかった。

 しかし今回、「もう全く駄目だ」、と全てを赤裸々に吐露し、「利」も何も無い、ほぼ完全降伏してしまったかのような事を正直に書いたエントリーを初めて挙げた時、皮肉にも過去最高の反応が返ってきてしまった。

 

 僕はそんな筆者を全くあげつらうつもりは無いですし、もっと言えば、これ以降、筆者が何を書くのか気になるくらいなのですが(残念な事にこの記事を挙げて以降一回しか更新をされていないのですが)、それはともかく、今回のブログの件に関して、僕が自分の心境と重ね合わせて思ったのが、「自分の手のうちを明かした時に初めて人を惹き付けるものが書けるのではないか」という事。

 

 

 多分、人間というのは誰しもが、相応に「カッコつけ」だと思うのです。友人に対して、異性に対して、世間に対して、常に僕達は内にある「恥ずかしい部分」を隠匿し、社会的に賞賛される様なクールなロールモデルに、自分を無理矢理はめ込んでしまう。「認められたい」「尊敬されたい」「かっこ良くなりたい」という感情をどうしても、押さえ込む事ができない。

 それは僕も全くもってそうです。そしてそれは、ブログに関しても十分に発露しています。すなわち「中途半端な内容はあげたくない!」「誰しもが語らなかった様な独自の視点で書きたい!」という様なもの。ブログを書くという事にたいして、知らないうちに並々ならぬプライドを抱えてしまっていたのです。

 今までに四つのエントリーを挙げましたが、全てに対してロジックの確認は結構しましたし、誤字のチェック、細かな助詞のチェックは何度も何度も繰り返し読んで点検しました。これも、言うなればそのかっこつけ、プライドのようなものでしょう。この場合、そのような矜持も良い方向に働いているのかもしれませんが。

 しかし、それだけではありません。ブログを始めて2週間くらいになりますが、いままでに結構な数の、構想した文章を反故にしています。やはり「内容」が気に入らないのですね。内容に、他の誰かの文章の既視感を感じたりすると、それだけで嫌になってしまう。「これは自分だけのオリジナルな文章ではない!」と、激情が走ってしまうのです。

 しかし、そうやって、肥大化したプライドだけを共に、ブログを続けていくと、どうなってしまうのでしょうか。恐らく、内容は「ご立派」なもので蓄積されていくと思いますが、影では、自分の生の感情から発した、いわゆる「本当の自分」「情けない自分」を必死に隠匿している事でしょう。そうなるとブログ全体は恐らく、味気のない、驚きの無いものになっているに違い有りません。もしかしたら、文章を書く事というのは、自分で自分を隔絶する、「牢獄の格子」を組み立てている様な作業になり得るのかもしれません。

 

 他人に、自分の文章を晒す以上、やはりそれ相応の「見栄」のようなものは避けられないでしょう。人は誰でも裸一貫で自分を表現するのは難しいものだと思います。太宰治は自分の人生をさらけ出して作品としましたが、その結果、自らの感情生活に対して多大な影響を被らざるをえませんでした。

 しかし、結局の所、人間というのはどうしても、官僚的な怜悧な人格ではなく、子供じみた「生の感情」に惹かれざるをえないものです。ブログを書く、という事に対して、今後僕が十分気をつけていきたいのは、ブログを公開する表向きの世間に対し、本来の性格を隠匿してしまう事、その事で自ら破棄してしまう「多くの構想の可能性」。すなわちロジックが破錠していたり、証拠不十分である、と判断しただけで捨ててしまう構想の喪失。

 

 そして上記のブログの筆者のような、「全ての手のうちを明かす」様な、贈与的行為をあくまで心がけること。「明け渡した者」だけにそれ相応のペイが支払われるのです。「堅持する者」に見返りは来ませんよね。