文末表現に関するちょっとしたメモ。

 論文は、あくまで確証化された論理の連なりを前提に話すので、「〜である」を文末に使用する事になる。「〜である」は、云ってしまえば断定的な立場に立つ者のみが使用することができる『マジックワード』である。「〜であるかもしれない」では、もちろん駄目だ。「世界を構築する」ための説得力を持つ事ができない。ある意味「ハッタリ」も効かない。

 しかしこの「〜である」、いつから使う様になったのだろう。思えば小さい頃、僕が文末に置いていたのは「〜と思う」だった。小さな子供はとてもじゃないが断定的な立場に立つ事はできない(「〜である」を使う子供がいたら、それはかなりイヤな子供だろう。)。何か説明しているわけではない、そこはかとなく、よく分からないけれど、心の中に灯ったさざ波の様な感覚を、おそるおそる口に出してみる、それが「〜と思う」という言葉に載せられた役割だったのだ。

 若者は「歌ってみた」「踊ってみた」という名札を付けて、動画サイトに動画をあげる。彼らは未だ、自らを断定的な世界に置く事はできない。「自分は結局何者でもない」という相対化と、「取るに足らない事をやっている」という若者特有の含羞が、彼らが共有するこの言葉に良く表れている。 良い悪いを言っているわけではない。むしろもし彼らが自らの動画を「歌った」「踊った」で言い切るならば、若者だけが持ち得るかけがえの無い魅力を持つことは出来ないであろう。「〜である」ではもはや、現実世界のカオスに収束されてしまう。

 

 文章を締めるために何気なく使っている文末表現にはあらゆる意味が込められているのである(と思う...)。

 

ペニー・レインはどういう所なのか、という事に関する話。

 「歌われた土地」、というものがこの世の中には無数にある。ある特定の場所が、題材として歌の詞の中に登場することである。Jポップではすっかり使われなくなった方法論だけど、昔で云えば「春のうららの隅田川〜」なんてそうだし、そこから時代は下っても例えば「津軽海峡冬景色」なんてドストレートなものもあったりして、珍しいものではな無い。そもそも古くは万葉集から、近世で云うと奥の細道まで、歌という枠組みを取り払えば、いくらでも特定の土地を題材とした作例は見つかるはずである。(最近だと、いきものがかりが「小田急線の〜」っていう様な歌を歌っていた気がする。)

 内田樹はこの特定の土地を題材として歌を唄う事を、中国の古代歌謡やサザンやユーミンの歌詞を例に、「国誉め」と呼ぶ。「山が高いとか、森が深いとか、水が流れているとか、景色を事細かに記述する」ことでその土地は、呪術的に「祝福」される。何も難しいことは無い、具体的に歌われる事で、土地は記号的な立場を越え「生々しい具体性を帯び」、「モノとしての物質性が付与され」、かげがえの無いものとなり、そしてナショナルトラストに昇華される。それが「国誉め」の原理である。

 この話を聞いて僕が真っ先に思い浮かんだのが、エレファントカシマシと、ビートルズである。両者には特に関係性は無い。すぐに思い当たる例として挙げるだけである。

 エレファントカシマシの歌詞には、詳しい人は分かるだろうけど、「上野」、「井の頭公園」、「武蔵野」、等々ありとあらゆる東京の土地が、地方出身の僕からしたら、「面食らう」程に歌われている。作詞を担当する宮本浩次は土地を歌い上げる事で、自ら育った東京を「祝福」しているのである。

 エレファントカシマシの話は別の機会に譲るとして、もう一つ挙げたビートルズも「国誉め」の歌をいくつか作っている。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」、または「ペニー・レイン」である。彼らも自ら育った英国のリヴァプールに存在する土地を題材にして歌を唄った。彼らが育った土地の名前である。(土地の名前をそのままタイトルにする、というのが実に良い)

 僕は後者の「ペニー・レイン」がとても好きだった。中期ビートルズがよく発想の種にした、ドラック幻覚を興じさせる様な妙にファンタジックな歌詞がとても好きだったのだ。

 

 Behind the shelter in the middle of the roundabout 
 The pretty nurse is selling poppies from a tray 
 And though she feels as if she's in a play 
 She is anyway 
 凌ぎ場の ロータリの真中にある店の裏で 
 かわいい看護婦さんがポピーの造花を売っている
 気持ちは舞台に立っているつもりだけど
 売っていることに変わりない

 

 実はこの曲自体が壮絶な隠語の宝庫という噂もあるのだけど、間違いなくこの歌にはレノン=マッカートニーのきらびやかな記憶が埋められているはずであり、彼らが幼少期に過ごした土地に対する「祝福」があるはずである。

 ところで、このペニー・レインという所は、旅行サイトの画像なり、グーグルアースを見るなりすると分かる様に、全くなんの変哲も無い通りなのである。確かに曲で歌われた床屋や銀行はある。花屋のお姉さんが売り場にしていたというロータリーっぽいものもある。しかし、後は民家がポツリポツリとあるだけで、僕が曲を何百回も聞いて想像を逞しくして思い描いていた煌びやかなイメージ(強いて云えば映画の「ペネロペ」みたいな感じ)には、到底及ばない地味さである。しかし、その事が「祝福」を余計に際立たせるのである。

 

 何の変哲もない秋風漂う様な土地を、ジョンとポールがただ幼少期を過ごしたという動機だけで、当時見聞したであろう記憶を頼りに歌を作り、それが世界の何億人の耳に伝わって、挙げ句の果てには「ペニー・レイン通り」を示す看板を度々盗まれるに至っているという、そのスケールが伸縮するようないきさつに、「祝福」する事の素晴らしさを感じざるを得ない。

   

  Penny Lane is in my ears and in my eyes 
  There beneath the blue suburban skies 
  Penny Lane
  ペニー・レイン 僕の耳に 目の中に
  見上げると青い郊外の空
  ペニー・レイン

 

 

 

 

 

人生は、「人には言えない事」を分かち合うためにある、って話。

 お気楽で能天気な僕にも、後悔、悲しみの類いが、それなりにあるんです。

 

 そういうのは大抵、人間関係に起因しているんです。宝くじが当たらなかったとか、美味しい物が食べられなかったとか、そういう様な、事象で完結してる様な事はすぐ忘れてしまいますが(笑)、 「あの人」と上手く喋れなかったとか、もっと本音を語りたかったとか、なぜあの時何も言えなかったんだろうとか、もっと遊びたかった、もっと喋りたかった、悪態の一言でもついてみたかった、下の名前で呼んでみたかったとか…こういう人間関係に発している「したかったけどできなかった後悔」の様なものは本当に、「腹の底にたまっていく」様に、未だ消し得ない悲しみとして、残っているんですね。

 

 僕は、「男子たるものクールであれ」っていう価値観をわりと最近まで信じてた口で(笑)、あまり自分の本音を出さないタイプだったんですが、最近この「クールであれ」という価値観は、「男子たるもの」だけではなく、ますますその領域を広げている様に見えてなりません。若者、大人、子ども…あらゆる立場の人が「クールであれ」をいつの間にか信条にしてしまっている様に思えるのです。

 僕はこの分野の専門では無いので分かりませんが、すっごく抽象的に自分の考えを述べると、今の日本人の生活の最優先に「社会的な秩序」というものがあって、それを守るためには「決して私情を出して秩序を乱してはならない」「そのためにはクールであれ」っていう空気があると思うんです(考えすぎかな)。

 そしてもう一つ、人のプライベートに極度に干渉しないという価値観が最近高まりつつあるでしょう?これは恐らく、日本人一人一人が共同体から解放されて文化的に分化し、物質的にも満たされて自己の生活に対する尊重感が高まったから、だと思うのですが、となれば当然「(人に対して)クールであれ」っていう価値観が育ちますよね。あまり深く干渉すると怒られるから、なるべく他人の私的領域には触れない様に、でも社会的な繋がりだけは大事だから、そこだけは、生かさず殺さずにしておくように。うーん、社会人になったら友達ができなくなるってのは何となく分かってきますね。

 僕はこの「社会秩序、プライベートを守るためにクールであれ」価値観の究極の表象が、SNSフェイスブックだと思ってる節があるのですが(笑)、それはさておきこのように、何か上滑りする様な、表面をなぞるだけのコミュニケーションが、ずっーと日本人の基調音としてあると思うのです。

 僕は多分、大人になるに従って、無意識にこの「クールであれ」空気をたくさん吸い込んでしまったのでしょう。それをどこで学んだか分かりませんが、ともかくいつの間にやら、「まぁまぁ社会的秩序はそれなりに守る」、でも「パッションのある人間関係は築けない」、そんな感じの、不機嫌な顔をした「しょぼくれた奴」になってしまっていたんですね。

 

 でも、人の心というのは、どんなに社会的ルールが変わっても、変わる事はないでしょう。昔の人が悲しみを感じた様に、今の僕達だって、それなりに悲しみを感じる事もある。一人じゃどうしようもできない事を、偶然の災禍の様に抱え込んでしまう時だってある。人に話して解消したい事だって、沢山ある。でも、そこでも「クールであれ」価値観が頭をもたげて、「そんな馬鹿な事言ってないで、お前は黙って社会的にやるべきことをやれ」って言ってくるんですね。うーむ。

 

 

 でもそうやって、「人に言えない事」「誰にも言えない事」を隠匿し続けて生まれた悲劇って、本当にたくさんあるんです。物語の古典とかをひもといても分かりますが、そうやって秘匿し続けた果ての人間関係のこじれとか、そういうものを書いた物語は本当にたくさんある。そしてその全ては、「正直に言えなかった」事に生じているんです。人間関係は代償的に壊される代わりに、社会的秩序は保たれる。そんな話は、どこにでもありますよね。愛の言葉すらろくに交わせず死んだ恋人同士の話もあるんです。

 

 人生は絶対、「人には容易に言えない事」をばんばん言った方が、楽しい。自分の名前だって、名字で言われるより名前で言われる方が、「祝福されてる」ような感じがするでしょう?

 そして何より、「人には言えない事」を言うというのは、人への信頼の表出なのです。薄っぺらい社会的秩序や、プライバシー感覚なんてのを飛び越して本音を打ち明けるというのは、それだけで素晴らしい行為なのですね。そして「人には言えない事」を聞くというのは、すなわちそれを受け止める優しさなのです。人生は「人には言えない事を分かち合う」、このためにあるではないでしょうか。

 「誰にも言えない事」を墓場まで大事に抱えていく、というのはあまりにも寂しすぎます。棺に入れるのはその人にとって大切な物だけで結構なのですよ。

人生がときめく「書斎」の魔法ー ①「聖域」としての書斎

 中島敦の小説に「文字禍」という有名な短編があります。

 

 物語を圧縮すると、古代アッシリアの博士が、文字の中には精霊がいるのでは無いか、という些かオカルティックな研究を始め、徐々にその文字に込められた霊的呪術力(記号論的な感じ)を発見し、その危険性を告発するのですが、それを第一線級の文化人であった当時の王に咎められ、謹慎処分。その数日後大地震が発生し、たまたま書庫にいた博士は、そこに収められていた数百枚の石版の下敷き(呪い)になって圧死するー と、いう内容なのですが、この「書物(この物語では石版ですが)が人に仇をなす」、というのはファンタジーでも何でも無く、実際にあり得る事だと個人的に思うのです(さすがに自らの意志で人を殺すという事はなさそうですが)。

 

 図書館、または本屋に行き、その無言の知の現出に圧倒された経験は無いでしょうか? 英文学者の吉田健一が若い時に「まだまだ読まなければならない本はたくさんある」と嘆息した様に、どんな人であれ「読んでいない本」というのは絶対的に多くあるものなのです。そしてその「読んでいない本」というのは、「他者が既に読んだ本」として怪物的にイメージを変容していきます。そして「(こんな本も読んでいない)私は遅れているのではないか?」という焦燥を掻き立てるのですね。まさに上記しました様に、「本が仇をなす」一例です※文学研究の話だけでなく、例えばビジネス本なら恐ろしくこの構造が機能している様に思えます。

 

 図書館や本屋は、あくまで「聖域」なのです。現実的な場所では絶対に現出しないものが現出し得る所。お寺や大聖堂の様な所だと考えましょう。そういう所にいくと言い知れない畏怖を感じますよね。それと同じようなものだと考えましょう。

 しかし、「聖域のポータブル化」と言いましょうか、自宅空間に聖域を持ち込む事がよくあるでしょう。仏教なら仏壇、キリスト教ならちょっとした祭壇とか。ではそれが、図書館や本屋という知的空間の話なら何の事なのか。まぁ、「書斎」の事ですね。書斎というのは、「絶対に現出しえない物を現出させる」、まぁそういう所です。

 

 仏教やキリスト教の聖域が「綺麗で当たり前」の様に、書斎も必ずメンテナンスを行わなければなりません。仏壇や祭壇の小道具がグチャグチャに乱雑だったらなんかすごい「バチ」が当たりそう、と思うのと同じで、書斎空間の中の本や資料がバラバラになってたらどうなるか。これは本当にアッシリアの博士みたいに「文字禍」(ここでは本禍か)を喰らっちゃいます。精神的に浸食されるような感覚を受けるのですね。

 

 例えば、本を買い過ぎて、もう本棚に収めるスペースが無くなって、どこか机の下に適当に積んでおく、という事をしばし緊急処置的な感じで執行する事があると思いますが、この「どこか見えない所に無理矢理押込められた本の山」というのは、その後「怪物的なイメージ」として頭の中で膨らみ続けます。読んだ本ならまだしも、読んでいないのであれば、その「悔い」は成仏(笑)される事は無く、「何か自分の中で絶対的に大切なものがあるのではないか」という禍根を増殖させるのですね。 しかし、そんな中でもまだまだ本は増えていく。そしてさらにその「大切なものが書いてあるのではないか本」は奥に押込められていく。こんなループがたまにあるのです。

 書斎空間の中では、「すみっこ」を作ってはいけないのです。これはここにある、あれはあそこにある、今読んでる本は近くに、読んだ本は遠くに、という風に秩序をつけて一覧的に把握していなければならない。ろくに整理もせずに、適当な本を段ボールに詰めて床下に入れておく。これは恐ろしい事ですよ。あ、こういうのが「付喪神」って言うものになるんじゃないでしょうか。

 

 知的空間を対象に、いささか比喩的に、少々誤解を産んでしまいそうな文脈で書斎について語ってみましたが、そもそも「書斎」という言葉を見て下さい。斎というのは、そもそも「いつき」と言って、「潔斎をして神に仕える事」、なのですよ。何か霊的な領域と媒介をするものとして、本というものを丁重に御祀りしてあげるべきではないでしょうか…(なんだこのスピリチュアルっぷり)。

普遍性としての「ベタさ」ー 私的エレファントカシマシ論②

  前エントリーでは、エレファントカシマシの世界観を形成するヴォーカルの宮本浩次の歌詞世界を、その内省性や「悲しみを抱えてうろうろ歩き回る文系青年の身体」という、やや自らの偏ったパースペクティブの元に分析しましたが(それゆえに「私的」なのですが)、今回はあくまでフラットに、その歌詞に通底する基準軸のようなものを、大きな視点からとらえて、考えてみる事にします。

 

 宮本は読書家で、文学的な教養も十二分にある事を、前エントリーで紹介しました。実際彼の詞をいつ読んでも(聴いても)、時折挿入されるその文学的な表現に感嘆してしまう事は少なくありません。

 しかし、そのように、言葉に対する十分な拘りがありながら、一方で楽曲のタイトルは、その中の文学的な歌詞に比べて、ハッとしてしまう程「簡素」な場合が多いのです。いくつかご紹介しましょう。

 

「四月の風」

「孤独な旅人」

「悲しみの果て」

「明日に向かって走れ」

「真夜中のヒーロー」

「普通の日々」

「笑顔の未来へ」

さらば青春

「ふたりの冬」

「風に吹かれて」

「俺たちの明日」

 

 このように、どちらかと言うと、言葉の世界では「消費し尽くされてきた」と言ってもいいような、もっと言うと「ベタ」さすら感じさせてしまうタイトル名が、非常に多いのです。「さらば青春」「俺たちの明日」というのはいかにも昭和の青春ドラマでありそうですね。「風に吹かれて」なんて、それなんて五木寛之orボブ・ディラン?って言われちゃいそうです。もちろん変わったタイトルの楽曲も相応にありますが。

 

 荷風を読み、鴎外を読み、太宰を読み、古典文学すら手にとる様な宮本が、何故タイトルの上では、あくまでその様な「ベタ」な表現を取るのか。もちろんそれはあくまで表現者の自由と言っていいでしょうが、僕はあえてここに仮説を呈示します。それは宮本自身の「普遍性への希求」です。

 十数年前に、エレファントカシマシとして出演した番組の中で、宮本は自身が影響を受けた曲として、森田公一とトップギャランの「青春時代」と、沢田研二の「サムライ」を挙げています。どちらも日本歌謡史に残る大名曲なのですが、あえて言うと、ど真ん中すぎるくらいど真ん中の歌謡曲なんですね。しかし、ここにも宮本の、あえての「ベタさ」。良く言えば「普遍性」への憧れが垣間見れます。

  恐らく彼は過度な読書家ゆえに、長く後世に残る文学というのは決して突飛なものでなく、いつの時代の人間にでも通じる「普遍性」が備わっている、という事を、その文学的素養で嗅ぎ取っているのではないでしょうか。反対に、ある時代の人間、あるグループに所属する人間にしか通じない様な「特殊性」のある表現に対する忌避の様なものもあるのだと思います。

 

  僕らそうさこうして いつしか大人になっていくのさ

   いざゆこう さらば遠い遠い青春の日々よ

                (「さらば青春」)

 

 宮本には恐らく、日本歌謡や日本文学の長い長い伝統の延長線上に乗ろうという意図があるのだと思います。文学が常に主題としていた孤独、恋愛、友情、退屈、希望、労働、懊悩、政治革命!(すら書いているんです彼は)等の人間的テーマをあくまで「ベタ」に、「普遍的」に、詞であまさず表現しようとする。これが、エレファントカシマシが何故現代のミュージシャンの中で際立って「文学的」なのか、という問いに対する一つの解になりえると思います。そして、日本歌謡の「正統的な後継者」として、「日本的なるもの」を歌い上げる事ができる、現代において数少ないアーティストであるとも言えるでしょう。

 

ココロに花を

ココロに花を

孤独な文系青年は今日も歩くー 私的エレファントカシマシ論 ①(かも)

 誰しも、自らの感性にピタっとあて嵌るアーティストや作家がいると思います。

 

 この人(達)はもしかしたら、自分と同じ道を歩いてきたのではないか、同じものを食べてきたのではないか、同じ事を考えてきたのではないか。

 今の自分が考えている事や、感じている事を、その人は絵画なり音楽なり文学なりで、完全にピタリと当て嵌まるものを呈示してくれる。もしかしたらこの人は「自分を知っているのではないか」、と思うくらいに。

 

 と言う訳で、そんなアーティストは人それぞれだと思いますが、僕の場合はというと、タイトルに掲げましたように、僕が数年来、偏愛してやまないミュージシャンの「エレファントカシマシ」なのです。

 

 エレファントカシマシの楽曲の作詞のほとんどは、ヴォーカルである宮本浩次が担当しています(ボサボサ頭に白のシャツと黒のパンツという完全に記号化された彼のファンシーな身なりに覚えのある人はいるはずです)。この宮本という人は非常に文学的な素養のある人で(好きな作家は森鴎外(!))、その豊富な読書体験をベースに、現代のミュージシャンとは思えないくらいの文学的な、時にはアナクロ過ぎるのではないかと思うくらいの詞を頻繁に書きます。

 

  世をあげて 春の景色を語るとき

  暗き自部屋の机上にて

  暗くなるまで過ごし行き

  ただ漫然と思いゆく春もある  

           (「夢のちまた」)

 

  コツコツ鳴ってる火鉢を間に

  誰かが俺に聞いている

  「お前はなぜに引きこもる?」

  俺は何も答えずに

  引きつる笑顔を向けていた

           (「遁生」) 

 

 このように明治・大正の文学青年が書いたのでは無いかと思わせる様な錯覚を起こすくらい、彼の書く詞は、現代のミュージシャンの文脈に置いては非常に「文学的」と呼べるものなのです。この「明治大正の文学青年」的な歌詞だけではなく、現代人のスタンダートな感情を謡った詞も同じくらいありますが、ともかくエレファントカシマシを特徴づける要素としてこの、日本文学史の延長線上に位置づけても良いのではないかと思えるくらいの「文学的な歌詞」が挙げられます。

 

 その、宮本が書く「文学的な歌詞」を極度に大まかに抽象化するとどの様な言葉に代替できるのか。僕はそれを「文系青年の哀しみ」と、個人的には呼んでいます。

  

  太陽ギラギラ ビルの谷間

  働く人たち せわしげに

  あそこを見てみろ 一人の男

  首をうなだれて ナミダ顔

 

  どうしたその顔

  みんな楽しそうだよ

  ああ 俺にはわからない

  ああ ほんとうに楽しいの

          (「太陽ギラギラ」)

 

 彼の詞には、「極度な内省性」が通底しています。笑ったり彼女と過ごしたり友達と歩いたりと、外向的な側面ももちろん歌われますが、基本的に内向的。一人で行動し、一人で思考に沈潜する。どこか集団から一歩引いている彼が見えてきます。彼自身読書が好きで散歩が好きで大学はあまり愉しめなかった、という様な人なので、すなわち宮本自身のパーソナリティが、歌詞に自然と植え付けられているのですね。

 

 上記したように彼は散歩が趣味らしいのですが、彼の書く詞の「主人公」は本当によく歩き回ります。夜の道、夜の川沿い、駅までの道、家までの帰り道、古地図と共に歩く道、古墳界隈、神社、武蔵野の坂、海辺、桜の花が舞い上がる道…等々、 04年にシングルリリースした「友達がいるのさ」では「歩くのはいいぜ」と歌詞の中で断言するくらいに、彼と「歩く」事は切っても切れない関係なのです。

 このうろうろとどこまでも歩き回る、歌詞に刻まれた身体性こそ、「宮本文学(?)」の大きなトピックなのではないかと思うのです。(と、同時に彼の詞の大きな特徴として、対照的な「走る」という身体性もあります。彼は「走り回る」存在でもあるのです。これはまた別の機会があれば。)そしてこの「歩行」はすべて「独歩」です。一人で歩く。一人でどこまでも歩いていく。一人で歩きながら考える。一人で歩きながら悩む。一人で歩きながら希望に思いを馳せる。一人で歩きながらセンチメンタルにふける。

 

 寒き日 ポケットに手を入れながら 遠くを見て歩く

 寒き日 お前の街まで出掛け行く

 寒き日 俺は人とすれ違う 駅の前で 暮れ行く町で

 

 凍えそうな日よ 

 家路を急ぐ人たちよ

 俺も帰ろう 遠回りをして

 家に帰ろう  

       (「寒き夜」)

 

 文系青年の哀しみ、極度の内省性とすこし前に上記しましたが、少しでもこのようなパーソナリティの自覚がある方ならば、共感できる所があるのではないでしょうか。何かドンヨリとしてあてもなく街を歩いた時、向かうべく所もないけど、「歩くしかなかった」時、悲しみを抱えながらブラブラと歩いていた時。そのような経験をした方にとって、宮本の詞はかつての「その道」や「その時の感情」を、ありありと立体化させそこにあるかと思わせるくらいに現出させる呪力があるはずなのです。

 

 宮本は「孤独な文系青年」として、青春期から今に至るまで(一人で)様々な道を歩きまわり、そして彼自身はその身体に刻まれた風景や感情を、何度も何度も詞として表してきました。今も歌詞の中で、彼の抽象的な姿として作られた「孤独な文系青年」は、たった一人、孤独な道を歩き回っています。まるで「歩く」という事で自分の存在を主張するかのように。

 彼の詞を読むと、そんないつか自分が歩いた孤独な道が、その時の切迫とした感情と共に立ちあがってくるのです。まるで宮本自身がその道を歩いたかのように。そう、最初にも言いましたが、確かに彼は、僕とおなじ「道」を辿っていたのです。

 

明日に向かって走れ ― 月夜の歌

明日に向かって走れ ― 月夜の歌

 

はじめに「問い」ありき。 鹿島茂「勝つための論文の書き方」は最高にお奨めの本です。

 世の中には多くの「論文作成本」があります。清水幾太郎さんの「論文の書き方」という本がありますが、これが1959年出版。60年も前からこのようなジャンルはあったのですね。恐らく、戦前から遡り、大正、明治期も「文章作成法」の本は少なからずあったでしょう。言うまでもなく「ロジックが過不足なく通った文章の作り方」というのは、どんな職業であれ普遍的に必要なメソッドなので(報連相が重要視される日本なら特に)、当然それ相応の社会的需要が、いつの時代もあったのでしょう。そして今も、多くの類本が生まれていますね。

 今も昔も、色々な立場の人が求める技術ですが、その中でも一番需要がある層と言えば大学生ではないでしょうか。ほとんど「論文作成法」というものを習わず、いきなり大学というアカデミックな場所に放り出された若者にとって、単位の取得や、または卒論制作という人生をかけた「通過儀礼」を果たすために、救いを求めるように飛びつくのは「論文本」だと、想像に難くはないはずです(まぁ先輩や先生に教えてもらう事が実際は多いかもしれませんが。)。

 

 しかし、その肝心の論文本というのは、多くが非っ常にアカデミックな立場から書かれたものが多いのが実情です。もちろん論文というのは大抵アカデミックな文脈で語られる事が多いので、当然と言えば当然かもしれませんが、実際適当にその類いの本を読んでみると、やはり「重い」「メンドクサイ」「ダりぃ」。良く言えば形式的、悪く言えば冗長的。重厚な「序説」から始まり、その後は論文を成立させるための「細則」が、びっしりと徹頭徹尾延々と書き尽くされているのです。うぅ。

 そのような「論文本」に目を通した事がある方なら大抵は理解の及ぶ事かもしれませんが、このパブリックな色合いを帯びた論文本が何が問題なのか、というと、結局の所「読んでも書けるようにならない」という事です。読んでも読んでも論文の細則(ルール)ばかりに詳しくなるばかりで、目の前の課題に対して、どういう風にアプローチしていいのか分からない、「自分の論」を作るために何をすればいいのか分からない、結局「どうやって書けばいいのさ」という、最初の地点に戻ってきてしまうのです。

 

 ここからが本論なのですが、そのようなトラウマすら植え付けるような数多の論文本と違い、鹿島茂さんが2002年に出版された「勝つための論文の書き方」は、本当に分かりやすく論文を書くという事を噛み砕いた、「論文が書ける」論文本なのです。なおかつ読み物としても十二分に面白い。“狛犬学”は何故成立したか、カフェと喫茶店の違いは何か、SMの亀甲縛りは何故生まれたか、という様な論文作成の実例として挙げる「小ネタ」が満載で、論文本を一種のエンターテイメントにまで仕上げています。ともかく解説していきましょう。

 

 この「勝つための論文の書き方」と、多くの論文本を徹底的に分かつ最重要のポイントがあります。これこそが「論を作る」という事に最も大切な事。すなわち「問いを立てる」という事です。著者は冒頭でまずこの重要性を説きます。

 

 「論文と作文の区別はどこにあるかといいますと、作文にはなくて、論文には絶対になければいけないものがあります。それは「問い」、クエスチョンマークです。論文は必ず問いから始まらなければなりません。そして、それの答えをこれこれこういう理由だから、こうなるんだとはっきり証明する形で結論へと導く、これが論文というものです。」

 

 数多くの類本を読んでも分からなかった、「結局論文ってなんなのよ」というテーゼが、一瞬で氷解する一文です。すなわちどんな論文にも必ず「問い」があるということ。そしてそれに対する仮説があり、それをデータと共に分析して証明し、最後に一定の結論がある事。これが見えなかった「論文を作る事」の正体なのです。

 つまり論文作成で失敗している多くの方々にとって、まず躓いているのがそもそも「問いが無い」という事でしょう。何枚書いてもそこには概要があるだけ、引用があるだけ、マトメがあるだけ…問いも無く、分析もなく、結論も無い。これでは論文とは言えません。逆に、まず「問い」を立ててしまえば、それだけで一気に論文作成のためのトリガーは作動するのです。

 

 「問い」を立てるためにはどうすればいいのか、そんなクリエイティブな作業が容易にできるというのか、という反論が返ってくるでしょう。しかしここでも著者は鮮やかな解答を用意しています。

 

 「問いというのは、比較の対象があって初めて生まれてくるものです。一つしかないところには、比較がありませんから、差異の意識も生まれず、したがって、問いも生まれません。」

 「これはあれとは違う、どこがどう違うのだろう、またはそれはなぜなのだ、というような問いは、比較することによって初めて生まれるということです。比較でしか、差異への意識は生まれてこないのです。」

 

 著者はその比較の方法を〈類似性と差異性の把握〉と呼びます。例えばヨーロッパではゴシック美術という美術様式が中世に起こりましたが、一つの様式が同じ形で普遍的に行き渡った訳ではなく、フランスゴシック、イタリアゴシックという風に各国の文化、風土に適合して細かく分化していきました。ではそこでフランスのゴシックとイタリアのゴシックをつき合わせて比較したら何が見えてくるか、フランスのゴシック建築は屹立として縦に長いのですが、逆にイタリアの場合だと不思議な事に横に広がっていく様ななだらかな建築なのです。これだけの素材でも「問い」が生まれてきそうですね。そしてこれは著者の言葉で言うと〈差異性の把握〉です。

 もう一つの〈類似性の把握〉は、文字通り類似するものを見つけ、点と点を繋いでみる事。これはあえて全く違うものを繋げて見るとかなり面白い問いが立てられます(トンデモ理論に堕する事も多いですが)。例えばゴシック建築というのは非常に「ケバケバしい」外観なのですが、ゴシック様式が徐々に衰微してから100年後くらいに、大陸の果てしない向こうで、同じ様に「ケバケバしい」建築が建てられます。日光東照宮の事ですね。西洋のゴシック様式と日光東照宮をあえて繋げてみれば、何か面白い事が見えてくるのではないか、というのが僕の(トンデモ?)な「問い」なのですが(笑)、極端な例ですがこれが〈類似性の把握〉です。まぁとにかく、近接したものでも遠隔したものでも比べてみる事で「問い」が見えて来る、という事ですね。

 

 そしてこの比較を用いた〈問いを見つける〉方法論は、著者によってさらに深められます。それが「縦軸の移動」と「横軸の移動」です。

  「縦軸の移動」というのは過去に遡ってみる事です。例えば先程のフランスゴシックの話なら、ゴシックの前にはロマネスク様式というものがあり、ロマネスクinフランスの時代がありました。ロマネスクからゴシックに移行する時に何が失われたのか、そして何が足されたのか。これはとても大事な論点でしょう。この視点があれば、〈問い〉が作れます。まぁ基本的ですね。

 そして「横軸の移動」というのは、歴史的な縦軸の比較では問いが見えてこない時に使える方法論です。これは著者の文を概略的に引用します。著者は成熟したメスの乳房について問題を立てようとしますが、元来、人の体というものは歴史的にあまり変化が無いので、ここでは「縦軸の移動」は通用しません。そこで著者は「横軸の移動」と言って、人間の体の歴史ではなく、猿の体を軸に考察を始めます。人間から猿へ、比較対象を「横」にずらしたのですね。すると、調べてみると猿というのは人間のように膨らんだ乳房を持つ種類は皆無の様なのです。著者は問いを立てます。「なぜ、同じほ乳類の中でも人間の体のみ乳房が発達しているのか」と。これは確かに興味深い考察が得られそうです。

 

 著者の「問いを立てる」方法論をザッと紹介して行きましたが、もちろん著者はただ問いを立てることを是としているわけでなく、「本質的な問題に届いているかどうか」という事をチェックする様心がけよ、と説いています。「くだらない問い」を立ててしまうことで、時間を浪費してしまう危険性を十分に警戒してくれています。しっかり「先行研究をせよ」「先行研究をした上で誰も見つけていない問いを立てよ」と仰っているのですね。ここでしっかりアカデミックな領域に引きずり戻してくれます。なんとバランス感覚のとれている事か。

 

 結構、論文作成本には目を通してきましたが、その中でもダントツでナンバーワンだと思います。まだまだ本書の素晴らしい内容は紹介しきれていません(また別の機会で書くかも)。ぜひ手にとって頂く事をお奨めします。最後に断っておくと、ちょっとエッチな内容もあるんです、しかもそれを女子大生の前で話すかっていう(笑)。

 

勝つための論文の書き方 (文春新書)

勝つための論文の書き方 (文春新書)