人生がときめく「書斎」の魔法ー ①「聖域」としての書斎

 中島敦の小説に「文字禍」という有名な短編があります。

 

 物語を圧縮すると、古代アッシリアの博士が、文字の中には精霊がいるのでは無いか、という些かオカルティックな研究を始め、徐々にその文字に込められた霊的呪術力(記号論的な感じ)を発見し、その危険性を告発するのですが、それを第一線級の文化人であった当時の王に咎められ、謹慎処分。その数日後大地震が発生し、たまたま書庫にいた博士は、そこに収められていた数百枚の石版の下敷き(呪い)になって圧死するー と、いう内容なのですが、この「書物(この物語では石版ですが)が人に仇をなす」、というのはファンタジーでも何でも無く、実際にあり得る事だと個人的に思うのです(さすがに自らの意志で人を殺すという事はなさそうですが)。

 

 図書館、または本屋に行き、その無言の知の現出に圧倒された経験は無いでしょうか? 英文学者の吉田健一が若い時に「まだまだ読まなければならない本はたくさんある」と嘆息した様に、どんな人であれ「読んでいない本」というのは絶対的に多くあるものなのです。そしてその「読んでいない本」というのは、「他者が既に読んだ本」として怪物的にイメージを変容していきます。そして「(こんな本も読んでいない)私は遅れているのではないか?」という焦燥を掻き立てるのですね。まさに上記しました様に、「本が仇をなす」一例です※文学研究の話だけでなく、例えばビジネス本なら恐ろしくこの構造が機能している様に思えます。

 

 図書館や本屋は、あくまで「聖域」なのです。現実的な場所では絶対に現出しないものが現出し得る所。お寺や大聖堂の様な所だと考えましょう。そういう所にいくと言い知れない畏怖を感じますよね。それと同じようなものだと考えましょう。

 しかし、「聖域のポータブル化」と言いましょうか、自宅空間に聖域を持ち込む事がよくあるでしょう。仏教なら仏壇、キリスト教ならちょっとした祭壇とか。ではそれが、図書館や本屋という知的空間の話なら何の事なのか。まぁ、「書斎」の事ですね。書斎というのは、「絶対に現出しえない物を現出させる」、まぁそういう所です。

 

 仏教やキリスト教の聖域が「綺麗で当たり前」の様に、書斎も必ずメンテナンスを行わなければなりません。仏壇や祭壇の小道具がグチャグチャに乱雑だったらなんかすごい「バチ」が当たりそう、と思うのと同じで、書斎空間の中の本や資料がバラバラになってたらどうなるか。これは本当にアッシリアの博士みたいに「文字禍」(ここでは本禍か)を喰らっちゃいます。精神的に浸食されるような感覚を受けるのですね。

 

 例えば、本を買い過ぎて、もう本棚に収めるスペースが無くなって、どこか机の下に適当に積んでおく、という事をしばし緊急処置的な感じで執行する事があると思いますが、この「どこか見えない所に無理矢理押込められた本の山」というのは、その後「怪物的なイメージ」として頭の中で膨らみ続けます。読んだ本ならまだしも、読んでいないのであれば、その「悔い」は成仏(笑)される事は無く、「何か自分の中で絶対的に大切なものがあるのではないか」という禍根を増殖させるのですね。 しかし、そんな中でもまだまだ本は増えていく。そしてさらにその「大切なものが書いてあるのではないか本」は奥に押込められていく。こんなループがたまにあるのです。

 書斎空間の中では、「すみっこ」を作ってはいけないのです。これはここにある、あれはあそこにある、今読んでる本は近くに、読んだ本は遠くに、という風に秩序をつけて一覧的に把握していなければならない。ろくに整理もせずに、適当な本を段ボールに詰めて床下に入れておく。これは恐ろしい事ですよ。あ、こういうのが「付喪神」って言うものになるんじゃないでしょうか。

 

 知的空間を対象に、いささか比喩的に、少々誤解を産んでしまいそうな文脈で書斎について語ってみましたが、そもそも「書斎」という言葉を見て下さい。斎というのは、そもそも「いつき」と言って、「潔斎をして神に仕える事」、なのですよ。何か霊的な領域と媒介をするものとして、本というものを丁重に御祀りしてあげるべきではないでしょうか…(なんだこのスピリチュアルっぷり)。