文末表現に関するちょっとしたメモ。

 論文は、あくまで確証化された論理の連なりを前提に話すので、「〜である」を文末に使用する事になる。「〜である」は、云ってしまえば断定的な立場に立つ者のみが使用することができる『マジックワード』である。「〜であるかもしれない」では、もちろん駄目だ。「世界を構築する」ための説得力を持つ事ができない。ある意味「ハッタリ」も効かない。

 しかしこの「〜である」、いつから使う様になったのだろう。思えば小さい頃、僕が文末に置いていたのは「〜と思う」だった。小さな子供はとてもじゃないが断定的な立場に立つ事はできない(「〜である」を使う子供がいたら、それはかなりイヤな子供だろう。)。何か説明しているわけではない、そこはかとなく、よく分からないけれど、心の中に灯ったさざ波の様な感覚を、おそるおそる口に出してみる、それが「〜と思う」という言葉に載せられた役割だったのだ。

 若者は「歌ってみた」「踊ってみた」という名札を付けて、動画サイトに動画をあげる。彼らは未だ、自らを断定的な世界に置く事はできない。「自分は結局何者でもない」という相対化と、「取るに足らない事をやっている」という若者特有の含羞が、彼らが共有するこの言葉に良く表れている。 良い悪いを言っているわけではない。むしろもし彼らが自らの動画を「歌った」「踊った」で言い切るならば、若者だけが持ち得るかけがえの無い魅力を持つことは出来ないであろう。「〜である」ではもはや、現実世界のカオスに収束されてしまう。

 

 文章を締めるために何気なく使っている文末表現にはあらゆる意味が込められているのである(と思う...)。