孤独な文系青年は今日も歩くー 私的エレファントカシマシ論 ①(かも)

 誰しも、自らの感性にピタっとあて嵌るアーティストや作家がいると思います。

 

 この人(達)はもしかしたら、自分と同じ道を歩いてきたのではないか、同じものを食べてきたのではないか、同じ事を考えてきたのではないか。

 今の自分が考えている事や、感じている事を、その人は絵画なり音楽なり文学なりで、完全にピタリと当て嵌まるものを呈示してくれる。もしかしたらこの人は「自分を知っているのではないか」、と思うくらいに。

 

 と言う訳で、そんなアーティストは人それぞれだと思いますが、僕の場合はというと、タイトルに掲げましたように、僕が数年来、偏愛してやまないミュージシャンの「エレファントカシマシ」なのです。

 

 エレファントカシマシの楽曲の作詞のほとんどは、ヴォーカルである宮本浩次が担当しています(ボサボサ頭に白のシャツと黒のパンツという完全に記号化された彼のファンシーな身なりに覚えのある人はいるはずです)。この宮本という人は非常に文学的な素養のある人で(好きな作家は森鴎外(!))、その豊富な読書体験をベースに、現代のミュージシャンとは思えないくらいの文学的な、時にはアナクロ過ぎるのではないかと思うくらいの詞を頻繁に書きます。

 

  世をあげて 春の景色を語るとき

  暗き自部屋の机上にて

  暗くなるまで過ごし行き

  ただ漫然と思いゆく春もある  

           (「夢のちまた」)

 

  コツコツ鳴ってる火鉢を間に

  誰かが俺に聞いている

  「お前はなぜに引きこもる?」

  俺は何も答えずに

  引きつる笑顔を向けていた

           (「遁生」) 

 

 このように明治・大正の文学青年が書いたのでは無いかと思わせる様な錯覚を起こすくらい、彼の書く詞は、現代のミュージシャンの文脈に置いては非常に「文学的」と呼べるものなのです。この「明治大正の文学青年」的な歌詞だけではなく、現代人のスタンダートな感情を謡った詞も同じくらいありますが、ともかくエレファントカシマシを特徴づける要素としてこの、日本文学史の延長線上に位置づけても良いのではないかと思えるくらいの「文学的な歌詞」が挙げられます。

 

 その、宮本が書く「文学的な歌詞」を極度に大まかに抽象化するとどの様な言葉に代替できるのか。僕はそれを「文系青年の哀しみ」と、個人的には呼んでいます。

  

  太陽ギラギラ ビルの谷間

  働く人たち せわしげに

  あそこを見てみろ 一人の男

  首をうなだれて ナミダ顔

 

  どうしたその顔

  みんな楽しそうだよ

  ああ 俺にはわからない

  ああ ほんとうに楽しいの

          (「太陽ギラギラ」)

 

 彼の詞には、「極度な内省性」が通底しています。笑ったり彼女と過ごしたり友達と歩いたりと、外向的な側面ももちろん歌われますが、基本的に内向的。一人で行動し、一人で思考に沈潜する。どこか集団から一歩引いている彼が見えてきます。彼自身読書が好きで散歩が好きで大学はあまり愉しめなかった、という様な人なので、すなわち宮本自身のパーソナリティが、歌詞に自然と植え付けられているのですね。

 

 上記したように彼は散歩が趣味らしいのですが、彼の書く詞の「主人公」は本当によく歩き回ります。夜の道、夜の川沿い、駅までの道、家までの帰り道、古地図と共に歩く道、古墳界隈、神社、武蔵野の坂、海辺、桜の花が舞い上がる道…等々、 04年にシングルリリースした「友達がいるのさ」では「歩くのはいいぜ」と歌詞の中で断言するくらいに、彼と「歩く」事は切っても切れない関係なのです。

 このうろうろとどこまでも歩き回る、歌詞に刻まれた身体性こそ、「宮本文学(?)」の大きなトピックなのではないかと思うのです。(と、同時に彼の詞の大きな特徴として、対照的な「走る」という身体性もあります。彼は「走り回る」存在でもあるのです。これはまた別の機会があれば。)そしてこの「歩行」はすべて「独歩」です。一人で歩く。一人でどこまでも歩いていく。一人で歩きながら考える。一人で歩きながら悩む。一人で歩きながら希望に思いを馳せる。一人で歩きながらセンチメンタルにふける。

 

 寒き日 ポケットに手を入れながら 遠くを見て歩く

 寒き日 お前の街まで出掛け行く

 寒き日 俺は人とすれ違う 駅の前で 暮れ行く町で

 

 凍えそうな日よ 

 家路を急ぐ人たちよ

 俺も帰ろう 遠回りをして

 家に帰ろう  

       (「寒き夜」)

 

 文系青年の哀しみ、極度の内省性とすこし前に上記しましたが、少しでもこのようなパーソナリティの自覚がある方ならば、共感できる所があるのではないでしょうか。何かドンヨリとしてあてもなく街を歩いた時、向かうべく所もないけど、「歩くしかなかった」時、悲しみを抱えながらブラブラと歩いていた時。そのような経験をした方にとって、宮本の詞はかつての「その道」や「その時の感情」を、ありありと立体化させそこにあるかと思わせるくらいに現出させる呪力があるはずなのです。

 

 宮本は「孤独な文系青年」として、青春期から今に至るまで(一人で)様々な道を歩きまわり、そして彼自身はその身体に刻まれた風景や感情を、何度も何度も詞として表してきました。今も歌詞の中で、彼の抽象的な姿として作られた「孤独な文系青年」は、たった一人、孤独な道を歩き回っています。まるで「歩く」という事で自分の存在を主張するかのように。

 彼の詞を読むと、そんないつか自分が歩いた孤独な道が、その時の切迫とした感情と共に立ちあがってくるのです。まるで宮本自身がその道を歩いたかのように。そう、最初にも言いましたが、確かに彼は、僕とおなじ「道」を辿っていたのです。

 

明日に向かって走れ ― 月夜の歌

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