はじめに「問い」ありき。 鹿島茂「勝つための論文の書き方」は最高にお奨めの本です。

 世の中には多くの「論文作成本」があります。清水幾太郎さんの「論文の書き方」という本がありますが、これが1959年出版。60年も前からこのようなジャンルはあったのですね。恐らく、戦前から遡り、大正、明治期も「文章作成法」の本は少なからずあったでしょう。言うまでもなく「ロジックが過不足なく通った文章の作り方」というのは、どんな職業であれ普遍的に必要なメソッドなので(報連相が重要視される日本なら特に)、当然それ相応の社会的需要が、いつの時代もあったのでしょう。そして今も、多くの類本が生まれていますね。

 今も昔も、色々な立場の人が求める技術ですが、その中でも一番需要がある層と言えば大学生ではないでしょうか。ほとんど「論文作成法」というものを習わず、いきなり大学というアカデミックな場所に放り出された若者にとって、単位の取得や、または卒論制作という人生をかけた「通過儀礼」を果たすために、救いを求めるように飛びつくのは「論文本」だと、想像に難くはないはずです(まぁ先輩や先生に教えてもらう事が実際は多いかもしれませんが。)。

 

 しかし、その肝心の論文本というのは、多くが非っ常にアカデミックな立場から書かれたものが多いのが実情です。もちろん論文というのは大抵アカデミックな文脈で語られる事が多いので、当然と言えば当然かもしれませんが、実際適当にその類いの本を読んでみると、やはり「重い」「メンドクサイ」「ダりぃ」。良く言えば形式的、悪く言えば冗長的。重厚な「序説」から始まり、その後は論文を成立させるための「細則」が、びっしりと徹頭徹尾延々と書き尽くされているのです。うぅ。

 そのような「論文本」に目を通した事がある方なら大抵は理解の及ぶ事かもしれませんが、このパブリックな色合いを帯びた論文本が何が問題なのか、というと、結局の所「読んでも書けるようにならない」という事です。読んでも読んでも論文の細則(ルール)ばかりに詳しくなるばかりで、目の前の課題に対して、どういう風にアプローチしていいのか分からない、「自分の論」を作るために何をすればいいのか分からない、結局「どうやって書けばいいのさ」という、最初の地点に戻ってきてしまうのです。

 

 ここからが本論なのですが、そのようなトラウマすら植え付けるような数多の論文本と違い、鹿島茂さんが2002年に出版された「勝つための論文の書き方」は、本当に分かりやすく論文を書くという事を噛み砕いた、「論文が書ける」論文本なのです。なおかつ読み物としても十二分に面白い。“狛犬学”は何故成立したか、カフェと喫茶店の違いは何か、SMの亀甲縛りは何故生まれたか、という様な論文作成の実例として挙げる「小ネタ」が満載で、論文本を一種のエンターテイメントにまで仕上げています。ともかく解説していきましょう。

 

 この「勝つための論文の書き方」と、多くの論文本を徹底的に分かつ最重要のポイントがあります。これこそが「論を作る」という事に最も大切な事。すなわち「問いを立てる」という事です。著者は冒頭でまずこの重要性を説きます。

 

 「論文と作文の区別はどこにあるかといいますと、作文にはなくて、論文には絶対になければいけないものがあります。それは「問い」、クエスチョンマークです。論文は必ず問いから始まらなければなりません。そして、それの答えをこれこれこういう理由だから、こうなるんだとはっきり証明する形で結論へと導く、これが論文というものです。」

 

 数多くの類本を読んでも分からなかった、「結局論文ってなんなのよ」というテーゼが、一瞬で氷解する一文です。すなわちどんな論文にも必ず「問い」があるということ。そしてそれに対する仮説があり、それをデータと共に分析して証明し、最後に一定の結論がある事。これが見えなかった「論文を作る事」の正体なのです。

 つまり論文作成で失敗している多くの方々にとって、まず躓いているのがそもそも「問いが無い」という事でしょう。何枚書いてもそこには概要があるだけ、引用があるだけ、マトメがあるだけ…問いも無く、分析もなく、結論も無い。これでは論文とは言えません。逆に、まず「問い」を立ててしまえば、それだけで一気に論文作成のためのトリガーは作動するのです。

 

 「問い」を立てるためにはどうすればいいのか、そんなクリエイティブな作業が容易にできるというのか、という反論が返ってくるでしょう。しかしここでも著者は鮮やかな解答を用意しています。

 

 「問いというのは、比較の対象があって初めて生まれてくるものです。一つしかないところには、比較がありませんから、差異の意識も生まれず、したがって、問いも生まれません。」

 「これはあれとは違う、どこがどう違うのだろう、またはそれはなぜなのだ、というような問いは、比較することによって初めて生まれるということです。比較でしか、差異への意識は生まれてこないのです。」

 

 著者はその比較の方法を〈類似性と差異性の把握〉と呼びます。例えばヨーロッパではゴシック美術という美術様式が中世に起こりましたが、一つの様式が同じ形で普遍的に行き渡った訳ではなく、フランスゴシック、イタリアゴシックという風に各国の文化、風土に適合して細かく分化していきました。ではそこでフランスのゴシックとイタリアのゴシックをつき合わせて比較したら何が見えてくるか、フランスのゴシック建築は屹立として縦に長いのですが、逆にイタリアの場合だと不思議な事に横に広がっていく様ななだらかな建築なのです。これだけの素材でも「問い」が生まれてきそうですね。そしてこれは著者の言葉で言うと〈差異性の把握〉です。

 もう一つの〈類似性の把握〉は、文字通り類似するものを見つけ、点と点を繋いでみる事。これはあえて全く違うものを繋げて見るとかなり面白い問いが立てられます(トンデモ理論に堕する事も多いですが)。例えばゴシック建築というのは非常に「ケバケバしい」外観なのですが、ゴシック様式が徐々に衰微してから100年後くらいに、大陸の果てしない向こうで、同じ様に「ケバケバしい」建築が建てられます。日光東照宮の事ですね。西洋のゴシック様式と日光東照宮をあえて繋げてみれば、何か面白い事が見えてくるのではないか、というのが僕の(トンデモ?)な「問い」なのですが(笑)、極端な例ですがこれが〈類似性の把握〉です。まぁとにかく、近接したものでも遠隔したものでも比べてみる事で「問い」が見えて来る、という事ですね。

 

 そしてこの比較を用いた〈問いを見つける〉方法論は、著者によってさらに深められます。それが「縦軸の移動」と「横軸の移動」です。

  「縦軸の移動」というのは過去に遡ってみる事です。例えば先程のフランスゴシックの話なら、ゴシックの前にはロマネスク様式というものがあり、ロマネスクinフランスの時代がありました。ロマネスクからゴシックに移行する時に何が失われたのか、そして何が足されたのか。これはとても大事な論点でしょう。この視点があれば、〈問い〉が作れます。まぁ基本的ですね。

 そして「横軸の移動」というのは、歴史的な縦軸の比較では問いが見えてこない時に使える方法論です。これは著者の文を概略的に引用します。著者は成熟したメスの乳房について問題を立てようとしますが、元来、人の体というものは歴史的にあまり変化が無いので、ここでは「縦軸の移動」は通用しません。そこで著者は「横軸の移動」と言って、人間の体の歴史ではなく、猿の体を軸に考察を始めます。人間から猿へ、比較対象を「横」にずらしたのですね。すると、調べてみると猿というのは人間のように膨らんだ乳房を持つ種類は皆無の様なのです。著者は問いを立てます。「なぜ、同じほ乳類の中でも人間の体のみ乳房が発達しているのか」と。これは確かに興味深い考察が得られそうです。

 

 著者の「問いを立てる」方法論をザッと紹介して行きましたが、もちろん著者はただ問いを立てることを是としているわけでなく、「本質的な問題に届いているかどうか」という事をチェックする様心がけよ、と説いています。「くだらない問い」を立ててしまうことで、時間を浪費してしまう危険性を十分に警戒してくれています。しっかり「先行研究をせよ」「先行研究をした上で誰も見つけていない問いを立てよ」と仰っているのですね。ここでしっかりアカデミックな領域に引きずり戻してくれます。なんとバランス感覚のとれている事か。

 

 結構、論文作成本には目を通してきましたが、その中でもダントツでナンバーワンだと思います。まだまだ本書の素晴らしい内容は紹介しきれていません(また別の機会で書くかも)。ぜひ手にとって頂く事をお奨めします。最後に断っておくと、ちょっとエッチな内容もあるんです、しかもそれを女子大生の前で話すかっていう(笑)。

 

勝つための論文の書き方 (文春新書)

勝つための論文の書き方 (文春新書)