迷ったら、とにかく書けばいいんじゃない?

 ブログを始めてから、まだ、たった3つ程度しかエントリーを書けていないのであれですが、今回は、ブログにおいて、さらに言えば人間活動全体において、とても根源的な「文章を書く」という行為について、考えてみます。

 

 「文章を書く」というのは、とても曖昧なものです。例えばどんなに頭の中で構想が形作られていようとも、いざ原稿に向かうとなると、中々文章として結実しない。頭の中にあるものが具体化されない。それどころか、文章を書き綴っているうちに、いつしか論理の齟齬や、例証の弱さなどが浮き彫りになってきて、とても筋のある内容とは言えなくなってしまう。

 反対に、まったく頭の中で構想ができていなくても、原稿に向かえば何故かすらすらと書き進んでいく事もあるし、書いてる最中に発想が浮かんだり、とても適切な例を思い出したりする事もある。このように、突如どんどんチェーンが繋がるような、発想の幸運に恵まれる事もあります。

 

 つまり「文章を書く」という事は、いつどんな段階においても、どんな状態においても、その品質が保証される事はほとんどない、と、個人的に思うのです。最近は「文章を書く」という事は、時折「文章修行」という風な厳めしい単語を使われる様に、本番において瞬時の対応性を迫られる「武道」のようなものではないか、と思う事さえもあります。(そういえば作家をアスリートの比喩で語られる方がいらっしゃったような。)

 もちろん、完全に計画的に書かれる方もいらっしゃるでしょう。作家であれば太宰治は、奥さんに自分の話す内容を筆記させ、それが寸分違わず小説になった、という話も聞きます。しかし、そのようなケースは相当な理性の元に構想されたものでしょうし、もしくは「才能」と言えるものでもあるでしょう。

 

 このように、「書く」という事が不完全性に満ち、計画性よりもむしろ不計画性の方が勝るのではないか、ならば幸運を待つしかないのか、とも思いがちになり、それゆえ「結局は才能」の一言で片付けてしまいたくなるー そのようなナーバスな感情を抱かせるのが、「文章を書く」という事なのですが(あくまで個人的にですが)、最近ブログを始めて、何か光明を見るように、悟った事があります。それは、「書き上げた物に自分の領域以外のものが表れる事はほとんどない」という事です。

 

 どのような事でしょうか。

 僕はあまり計画的、理性的な人間ではありません。先の三つのブログも、どちらかと言えば衝動的に書き上げたものです。頭の中に構想自体は確かにありましたが、文章の筋はほとんど書きながら作り上げたものです。

 卒論でさえそうだった気がします。提出20日前くらいにようやく本気を出す。A4用紙30枚を、どうやってそのような楽観主義で書き上げたのだろうかと、今になっては不思議になるくらいです。つまり、どちらかと言うとセレンディピティに任せている、せいぜいテーマと、オチ程度を考えているのが文章に対する僕のありったけの管理能力なのです。

 

 しかしそうやって偶然に任せたように書き上げられたものでも、よく読み返してみると、どこをどう切っても「僕の領域から生まれた文章」なのです。つまり、まったく行き着くがままに書いているように見えて、「あ、これは昔ぼんやり思ってた事だ」とか、「そういやこの例証はいい感じに使えるなぁとか思ってたよな」とか、そういうものがほとんどなのです。

  

 僕達は誰でも、それぞれの「思考のパースペクティブ」を持っています。つまり誰しも各々の「物の見方」があるという事。それは積み上げてきた人生の中に、言うなれば出会った本、出会った人物、体験した出来事等に影響され、着実に形成されたものです。そこに些末な知識などを加えていいでしょう。それが丸ごとすべて包めて「今現在の自分の思考領域」なのです。

 

 文章を書く事で、その「今現在の自分の思考領域」が、表面的な所も、もしくは潜在的な所も、浮き彫りにするように把握することができます。例えば二つ前のエントリーで「ラピュタ」についての記事を書きましたが、パズーを人格的なロールモデルとして解釈するのは、僕自身が形成してきたパースペクティブの賜物と言えるでしょう。

 当初は「ラピュタ」について何か書こうと思っていましたが、テーマは決めていませんでした。大体3時間くらいパソコンに向かって自由に打ち込んでいたものですが、完成した内容はほとんど自分が考えてきた事、その結晶体と呼べるようなものでした。そこに自分の思考領域内のものはあっても、ほとんど外れたようなものはありません。全て自分の辿ってきた痕跡が、そこに明確に書かれてあったのです。

 

 と、いうわけで、僕は今文章を書く、という事に対して以前より悠長な、もしくは余裕のある姿勢で向かえています。「文章を書く」というのは「怖い」、自分の無知さが明るみになる事もある、曖昧だ、どう帰結するかも分からない、計画的に行かない、それならむしろ書きたくないと、以前は必要以上にナーバスになっていました。

 しかし、結局「書くという事」は、自分の付けてきた痕跡を、また振り返って辿っていくだけ、という事でもあるのだと思います。それは自分の思考の確認作業とでも言えるでしょう。ならば、掲げたテーマに対して必要以上に奇抜な事を考えたり、奇特な発想をする事などしなくていいのではないでしょうか。

 今現時点で書き出せるものは、全て自分が体験してきた事、考えてきた事。それ以上でもそれ以下でもない。自分のパースペクティブが、テーマに対して、自分の記憶から適切なエピソードや例を引っ張りだしてくれる。それが自然と組み合わさってきて、次第にゆっくり結晶化していくー。

 

 もちろん現時点での思考、だけを最優先しているわけではありません。ロジックをさらに構築していく事や、他者のパースペクティブを組み合わせて思考を展開させる事も重要でしょう。

 自分の書いた文章のあまりにも稚拙な思考に戸惑う事もあるでしょう。しかしそれが「現時点での思考」なのです。それ以上でも、それ以下でもありません。

 

 迷ったらとにかく書く。そこに自分のパースペクティブや知識が明確に照らし出される。と、なると、文章を書く事が楽しくなってきます。自分が何を考えているか、どんな思考の枠組みがあるか、何を知らないか、明確に見えてきます。もしくは、自分が忘れている、「過去の自分」に、会える様な気さえしてくるのです。 

 

 と、つれづれなるままに、無計画に書いてみました。